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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)892号 判決 1981年8月28日

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 高橋武

被告 乙山春夫

右訴訟代理人弁護士 民永清海

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一七八〇万〇四三九円及び内金三四〇万八二八四円に対する昭和五五年六月一九日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和五三年八月一日午前一時ころ、被告自宅前の東京都荒川区《番地省略》先路上(以下「本件路上」という。)を通りかかった際、塀内から犬がほえ立てたので、酒の酔も手伝って、その犬に向かってからかった。

2  そこへ、被告が自宅から出て来て、「うるさいじゃないか。今何時だと思っているんだ。」と原告の胸元を強く押したところ、原告は、後にあったブロック塀に首筋を打ちつけ、そのまま前方へ崩れ落ちた。

3  被告の連絡による救急車によって原告は、近くの救急病院に運び込まれたが、脊髄が損傷(以下「本件傷害」という。)され、生命に危険がある状態であったので、翌日の昭和五三年八月二日東京都済生会中央病院に転院し、同月二九日頸椎の手術をした。

その結果は、当初四肢が完全にまひしていたが、その後のリハビリテーションによって、左手に多少握力が回復してきただけで、自力では食事、用便等の生存に不可欠な行為もすることができず、看護を必要とする状態に在る。そして、この状態は、好転する見込みがない。

4  したがって、被告は民法七〇九条に基づき原告の受けた後記損害を賠償する責任がある。

(一) 本件傷害により、原告は、従来勤務していた丙川製作所の職を失い、今後全く勤労に従事し得ない状態にあり、別紙損害明細書記載のとおり合計金三五六〇万〇八七八円の損害を受けた。

(二) ところで、原告には、その行為に若干の過失があり、また肉体上に隠れた欠陥があるので、過失相殺及び公平の原則により、右の損害の五〇パーセントを被告に帰せしめるのが妥当と考えられ、その額は金一七八〇万〇四三九円である。

5  よって、原告は、被告に対し、右損害賠償金一七八〇万〇四三九円及び内金別紙損害明細書(1)及び(2)の(イ)の合計金三四〇万八二八四円について訴状送達の日である昭和五五年六月一九日から年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、被告が自宅から出てきて「うるさいじゃないか。」と言ったことは認めるが、その余は否認する。

原告が、被告の自宅近くの路上で真夜中の午前一時前ころから同二時ころまで一時間余り、酔余、被告自宅の隣家の犬をからかい、到底寝ていることができず、また同夜は被告の子の訴外春子(当時満一歳)が急性気管支炎で病臥中であったので、被告は、やむを得ず、午前二時ころ、自宅から出て行ったのである。その時の原告の位置は、犬のいる隣家の被告自宅の反対側の斜め前の電柱に被告自宅及び隣家を右斜め後ろにしてもたれて立っていた。そして、被告が、原告の左横に対面して、原告に対し、「うるさいじゃないか。」と苦情を言うと、原告は「俺に言わないで犬に言え。」と放言した。

被告は、思わず左手で原告の胸元をつかんだが、深夜けんかになってもまずいし、相手も酔っているようであるから、直ぐその手を離し、右手で原告の左二の腕を押さえ立ち去るように前方に軽く押して歩行を促した。すると、原告は、体をフワッと浮かして被告に背を向けて電柱から一メートル余り離れた脇のブロック塀に顔をこすりつける様な状態で尻を落として、足をブロック塀の方に向けるような形で仰向けにひっくり返った。

3  同3の事実中、被告が救急車の手配をしたこと、原告が東京都済生会中央病院に転院したこと、昭和五三年八月二九日原告が手術をしたことは認め、その余の事実は知らない。

4  同4の事実ないし主張は否認ないし争う。

5  (被告の主張)

(一) 被告の原告に対する行為は、原告が犬をからかった時間、その執ようさ、被告の注意に対する原告の態度、被告の制止行為の程度から、社会的に集団生活をする場合における是認され得る範囲の行為で、私法上の正当な権利行使というべきで、違法性がない。

(二) 右昭和五三年八月一日当時、原告の頸椎は内部の石灰が流れ出し、脊髄を圧迫し、歩行中のほんのつまずきでも、それが原因で本件傷害のような症状を引き起こす状態であった。

したがって、被告の原告に対する行為と被告の本件傷害との間には、相当因果関係が存在しない。

三  被告の主張に対する反論

1  被告が原告の胸元を強く押してその首筋を後方のブロック塀にぶつけた被告の行為には、違法性がある。

2  原告には頸椎後縦靱体骨化という肉体の異常を有してはいたが、そのことで当然に脊髄損傷という本件傷害が生ずるものではない。

本件傷害は、被告が原告の胸元を強く押したため後方のブロック塀に首筋を打ちつけたため生じたもので、被告の右行為と本件傷害との間には相当因果関係が存する。

第三《証拠省略》

理由

一  請求原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二  同2の事実中、被告が自宅から出てきて、原告に対し、「うるさいじゃないか。」と言ったことは当事者間に争いがない。そこで同2の事実について検討するに、《証拠省略》並びに右一及び右二の冒頭の各争いのない事実を総合すると、次の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

1  原告は、昭和五三年七月三一日午後八時ころから同年八月一日午前零時半ころまでの間に職場の同僚二名と共に三軒の居酒屋で相当量のビール等を飲んだ後の同日午前一時前ころ、一人で被告自宅前の本件路上を通りかかった際、被告の隣家の犬が木戸の中からほえるのを耳にした。

2  そこで、原告は、右同日午前一時前ころから、本件路上の被告自宅と犬のいる隣家との境界付近から犬のいる隣家の被告自宅と反対側の斜め前の電柱付近との間で、足で地面をバタバタとたたいて音を立て、「もっとほえろ。もっとほえろ。」と大声を出し、あるいは右電柱に巻いてあるアルミ板をたたく等の隣家の犬をけしかける言動を同日午前二時ころまで一時間余りにわたり、断続的に取り続け、右隣家の犬を刺激してより一層激しくほえ立てさせ続けた。

3  被告は、昭和五三年八月一日午前一時前ころ間借りしていた二階(被告自宅)で家族と共に就寝していたが、右同日午前一時ころ隣家の犬がほえる声で目がさめて、下の路上を見たところ、被告自宅と犬のいる隣家との境界付近で隣家の犬をけしかけている原告の姿を現認したが、原告とかかわりあっては翌朝の勤務に差支えると思い、早く寝ようと思って再び床に入ったものの、原告にけしかけられてほえる犬の声で眠ることもできず、しかも当時急性気管支炎で、就寝前高熱を出し、咳もひどかった次女春子(当時満一歳)がようやく寝ついた直後であったため、たまりかねて、本件路上に出て行った。

4  そして、被告は、犬のいる隣家の被告自宅と反対側の斜め前の電柱に被告自宅及び犬のいる隣家を右斜め後ろにしてもたれかかっている原告の左横に対面して、原告に対し「うるさいじゃないか。いい加減迷惑だから帰ってくれ。」と言ったところ、原告がこれに耳を貸さずに被告に対し、「犬が騒いでいるのだから犬に言え。」と反抗的な態度を示したので、これに立腹した被告は、原告を早く帰らせようとして、左手で原告の胸倉をつかんで原告を寄りかかっている電柱から引き離そうとしたが、酔っている原告を相手にしてはいけないと考え、一旦その手を離し、口の中でぶつぶつ訳のわからないことを言って、相変わらず電柱にもたれている原告に対し、「帰れ」と言って、右手で原告の左肘をつかんで前に押した(以下「本件被告の行為」という。)ところ、原告が酔っていたことに加えて、当夜は降雨中で路面がぬれていたため、原告は頭を後ろにのけぞるような形で右足を軸にして、原告の右側の一メートル余り離れたブロック塀の方向に約九〇度回転した後、一旦、顔面を前のめりの形でブロック塀にぶつけ、そのまま足をブロック塀に向けた形で本件路上に仰向けに倒れた(以下「本件事故」という。)。

5  被告は、原告の本件事故に驚いて、原告に様子を尋ねたところ「手足が動かない。」と言うので、タオルを枕にして原告をそのままの状態で寝かせたまま一一九番に電話をして、救急車の到着を待った。

三  同3の事実中、被告が救急車の手配をしたこと、原告が東京都済生会中央病院に転院したこと及び昭和五三年八月二九日原告が手術をしたことは、当事者間に争いがない。

そこで、同3の事実について検討するに、《証拠省略》及び右争いのない事実を総合すると、次の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

1  原告は、被告の連絡によって間もなく本件現場付近に到着した救急車によって荒川区西尾久の岡野病院に運び込まれたが頸椎損傷の疑い兼顔面挫傷の診断を受け、意識は明瞭であったものの、四肢が完全にまひした状態で生命の危険があるとの理由で、昭和五三年八月二日港区三田の東京都済生会中央病院に転院させられ、頸椎後縦靱帯骨化兼頸椎損傷等の診断を受けた。

2  脊髄の入っている脊柱管には、頸椎後縦靱帯が入っているが、原告の場合には、その頸椎後縦靱帯が骨化して脊柱管内の空間の広さが狭くなり、正常の三分の二程度になり、脊髄を圧迫する状態で、原告は本件事故前はプレス工として力仕事もしていたものの、右事故前の四、五年前から頭の動きが悪いという自覚症状となって現われていたが、かかる状態になると、満員電車に乗って人に押されたり又は風呂場ないし階段で転倒したという程度の外力でも脊柱管の腹側を囲んでいる椎体(頸椎)が損傷し四肢の完全まひを引き起こす可能性があるところ、本件では、本件事故による外力が直接の原因で原告の第四番目の椎体(頸椎)が損傷され、その四肢が完全にまひするに至った。

3  そして、右頸椎後縦靱帯骨化という病気は、日本人には一〇〇〇人に二人しかかからないという珍しい病気に属するが、原告は、医師の勧めもあり、ともかく昭和五三年八月二九日右東京都済生会中央病院で脊柱管の背側の椎弓突起を除去して脊髄の圧迫を緩和し、四肢のまひを除去する手術を受けたが、まひ症状が好転することもなかった。その後も、同病院、石川病院、そして続いて現在入院中の狭山市の大成病院でリハビリテーションを受けた結果、四肢に触覚が戻り、腕はベッドから二五センチ位上げられるようになったものの、足は全然動かすことはできず、ベッドに寝たまま起居寝食に至るまで付添い看護を要する状態で、排尿は尿袋を着用し、排便はかん腸又は看護婦の力を借りている有様で、本件事故前はプレス工として働いていたにもかかわらず、全く稼働することができず、今後も右の状態がさして好転する見込みはない。

四  そこで、本件における被告の民法七〇九条に基づく損害賠償義務の有無について検討することとするが、まず本件被告の行為の違法性の有無から判断する。

被告が右手で原告の左肘をつかんで押した本件被告の行為は一応有形力の行使といわざるを得ないので、右有形力の行使の違法性の有無について検討する必要があるところ、右有形力の行使の動機ないし目的は、前記二のとおり、原告が酔余通りかかった家の飼犬を深夜に一時間余りもけしかけて犬をほえ立てさせたため、眠りから起こされて、眠ることができないので、原告に帰宅を促すことにあった。しかも、被告は、最初一時間近くがまんを重ねた上、まず言葉で説得して、原告に帰宅を促したにもかかわらず、原告が右説得に対し反抗的態度をとったので、原告の左肘をつかんで押すという本件行為をとるに至ったのであって、また右程度の範囲内の有形力の行使であれば、傷害といった結果を招来しないのが通常である。

被告の右の有形力の行使は、前記二の原告の酔余の喧騒行為の時間帯、その継続時間、その執よう性、周囲の住民に与える迷惑の程度、被告の説得にも応じない原告の反抗的な態度、更には被告は本件行為の刑事処分についても不起訴処分となっていること(不起訴処分になった事実は《証拠省略》から認められる。)等の諸事情の下では、原告の酔余の喧騒行為の制止の説得方法として社会的に是認される範囲の適法行為であると評価することができる。

なお、被告の右有形力の行使により、頸椎損傷による四肢の完全まひという重大な結果を原告に与えているが、前記三のとおり右結果は被告の行為が直接の原因ではあるが、原告自身の頸椎後縦靱帯骨化という極めてまれな病的要因が潜在的かつ根本的な原因であることに照らすと、右結果の重大性は右結論を左右するものではない。

また、被告は原告の帰宅を促すために、言葉による説得と本件行為との間に、原告の胸倉をつかむという行為に出ているが、直ちに思い直してその行為を中止している上、胸倉をつかんだ行為と本件傷害との間に相当因果関係がないので、被告が原告の胸倉をつかんだことも、前記結論を左右するものではない。

したがって、被告が右手で原告の左肘をつかんで押した本件被告の行為は、社会生活上是認された適法行為であって、違法性がなく、その他本件被告の行為の違法性を認めるに足りる証拠はなく、結局被告には民法七〇九条に基づく損害賠償義務はないことに帰する。

五  以上の次第で、原告の本訴請求は、その余の判断をするまでもなく理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民訴法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 宮﨑公男)

<以下省略>

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